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マサルの歴史
HISTORY
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マサルの歴史

HISTORY
マサルとは
世界有数の多雨国、日本。その雨量は年間で1700ml以上とも言われ、世界平均 (800ml) の実に2倍以上にも相当します。さらに、日本列島は4つのプレート (太平洋プレート、北米プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート) がぶつかり合うところに位置しているため頻繁に地震が発生する地震大国でもあります。この様に、人間にとっても建物にとっても厳しい環境下にあり、いつ自然災害が起こってもおかしくない大変過酷な状況にあります。それがわが国、日本なのです。
この厳しい環境の下、安全で快適な建物を建築するためには、万全の防水対策と、それをより永く保つための定期的な点検や補修 (リニューアル) を行うことが重要になってきます。そこを陰で支え、人々がより快適で安心できる生活を送れるようにすること。それが、マサルの使命なのです。
マサルグループは、3つの事業 (シーリング防水、メンブレン防水、リニューアル) を柱として構成されています。中でも、創業当時から現在までマサルの中核を担っているのが「シーリング防水」「メンブレン防水」を始めとした総合防水事業です。
マサルは、創業より55年にわたり、大型プロジェクトや超高層ビルなど数々の防水工事実績を残してきました。その間に蓄積されたノウハウと、経験豊かな専従スタッフ、そして高度な技能を有する約800名の技能スタッフを屋台骨とし、高度な技術提案と確実な施工を目指して、現在も積極的な事業展開を行っています。おかげさまで昨今では、都内の超高層ビルの7割を超える施工実績を有するまでに成長することができました。
「この国の建物を、永く、美しく。」
それが、マサルの思いです。
第一話「独立。そして、創業期を支えた若武者」
創業当時の苅谷勝(設立当時)
創業当時の苅谷勝(設立当時)
昭和30年。防水材業界で一つの技術革新が起きる。それは、外壁目地の雨仕舞いとして主流だった油性コーキング材の国産化。昭和化工(株)(現・昭石化工(株))の偉業だったが、実はこれが、(株)マサルの創業と大いに関係している。というのは、この新製品を売り出すための施工者として、当時昭和化工(株)の販売代理店に勤めていた創業者苅谷勝が抜擢されたのである。少年時代から経営者になりたいと思っていた苅谷は、これをチャンスと捉え、独立。フリーの技術者としてスタートを切った。
さて、それからすぐ、その油性コーキング材『エバーシール』を使用した初の大型工事を任された。昭和31年の暮れだった。内容は、岡山県庁舎の防水工事。非常に厳しい寒さの中での工事だったが、苅谷は、独立の緊張感と前途への明るい希望からめげることなくやり通した。それから10ヶ月間、苅谷は昭和化工(株)の期待を背に、多様な工事に携わりながら油性コーキング材の施工法を身をもって工夫、研究。職方たちを指導しつつ、第一人者として、その施工術を広めていった。そして機は熟し、ついに会社設立を決意。マサル工業(株)が産声を上げる。昭和32年9月30日のことだった。
設立当初は、社員数たったの2名。昭和化工(株)の社屋に間借りしてのスタートだったが、1年半後には7人の若武者集団へと成長していた。若武者、と表現したが、彼らは皆とてもヤンチャで、パワーみなぎるメンバーたちだった。その積極性を伝える逸話が残っているので、一つご紹介したい。
製薬会社三共(株)の工場(東京都品川区/清水建設(株))を工事したときのことである。この建物はコンクリートの打ち放し仕様で、そのコーキング工事を昭和化工(株)が請けていた。現場を任された社員・春名(マサル工業は当時、昭和化工(株)下請け会社だった。その後独立)は、「これはシリコーン撥水材『エバータイト』をコンクリート打ち放しに試す最高のチャンスだ!」と考え、三共(株)の営業課に直接売り込みに行った。業界の常識からすれば、元請けを飛び越して交渉するというのは、信じがたい行動である。これを知った昭和化工(株)は当然驚き、春名を伴い、清水建設(株)へと陳謝に伺った。が、そのとき、清水建設(株)の工事主任は春名らの愛社精神に燃えた姿を見て、「マサルは良い社員を持ったものだ。きっと立派な会社に成長するだろう」と語り、許してくれたという。
こうした積極果敢な姿勢は、社員一人ひとりが持っていた。そして、それはやがてマサルのDNAとして受け継がれていく・・・。
第二話「日本の建築の転機、三井霞が関ビル」
建設中の三井霞ヶ関ビル
建設中の三井霞ヶ関ビル
高度経済成長と相まって、順調に成長を遂げるマサル。昭和30年の後半には、業界内では、最高水準の技術力を有するという評判も受けていた。そんな中、エポックメーキングとなる工事を受注する。それが、三井霞が関ビルである。
三井霞が関ビルは、「超高層のあけぼの」とうたわれ、建築史上でも有数の建物である。昭和30年代後半に計画が開始され、43年に竣工。鹿島建設(株)と三井建設(株)の共同企業体によって、高層ビル建築の最先端技術を結集して建設された。構法・材料の各所に画期的な工夫・技術が駆使されており、その後の超高層ビル建設に大きな影響を与えることになる。
しかしながら、実際の現場は難航を極めた。誰もが経験をしたことのない高層建築である。予想外のトラブルも起きた。例えば、完工間近になって、自主検査の段階でいろいろな実態がわかりはじめた。シーリング材の性能に、ジョイントの構造・・・。問題点がいくつもあり、雨仕舞いがうまく納まらずトラブルが発生するのである。
ガラス周りに高層ビル初の1成分形シリコーンを使用
ガラス周りに高層ビル初の1成分形シリコーンを使用
マサルの積極性は、ここでも発揮された。意を決して、ゼネコンに申し出たのだ。「目地設計は、シーリング材の許容伸縮率等の性能を考慮した上で設計できないか、排水機構も見直せないか」と。完璧な工事をするためには、施工者側の意見も参考にしてもらいたい、という要望である。防水施工業者がこうした構造分野にまで口を挟むというのは、当時の業界常識からは非常に勇気のいることであった。
運も向いた。当時のゼネコンの担当者は、旧弊にとらわれない懐の広い人物だった。マサルの意見を積極的に採り入れてくれたのだ。
マサルは提案した。例えば、「雨が侵入しないように施工するのではなく、雨が侵入しても、自然と雨水が外に出るような施工をしましょう」など、さまざまな工夫を。こうした積極果敢な姿勢は、高く評価された。以降マサルは、目地構造の設計段階から参加するようになる。そして、高層建築には欠かせない存在として地位を確立。現在では、都内の高層ビルの7割はマサルが携わっていると言われている。
第三話「海外へと渡った、マサルの技術」
ラッフルズシティ(シンガポール)
ラッフルズシティ(シンガポール)
オプセル付きバックアップ材工法の確立(特許)や、防水専用のマスキングテープの共同開発、落とし目地専用のならし治具の開発、ストラクチャルグレージング工法の開発・・・。さまざまな現場を経るごとに、常にあたらしい技術を提案し続けてきたマサル。昭和50年代には、その技術力が、日本にとどまらず、海を渡り、海外へと広まっていくことになる。
当時、日本の建設業界は世界各地に市場を拡大している最中だった。マサルは、こうした建設に伴う防水工事の技術指導の要請を受けていた。サウジアラビア、エジプト、イラク、スリランカ、サイパン、中国、シンガポール等。
数多くの国々に、社員や職方を派遣した。そして、今まで培ってきた技術を、現地の人々に伝えていった。
アル=シャヒード・モニュメント(イラク)
アル=シャヒード・モニュメント(イラク)
当然、思いもよらないことも、たくさん経験した。例えば、エジプトでは、どこからともなく発生する猛烈なハエの大群に悩まされた。そこで、ガラスまわりの作業では殺虫剤を噴霧してから行った。サウジアラビアでは、気温に悩まされた。昼間の気温が42~45度。熱い日には50度にも達するのである。気温の変化にも耐えうる施工が必要だった。また、この国は埃も多く、シーリングの目的は主に埃対策だった。北京では、言語と文化の壁があった。工事の内容をいかに理解させるか、苦労した。
しかしながら、この海外派遣はマサルの経営史上にとって、非常に意義深いものになった。ひとつは、国境を越え、グローバルに活躍しうる企業であるということを世の中に知らしめるものであったこと。もうひとつは、営業面での貢献である。異境の地では日本人同士の親近感から、現地派遣のゼネコン社員と非常に親しい人間関係をつくることができた。これは、帰国後の事業拡大に大きく寄与することになった。
第四話「あらたな使命、リニューアル事業の展開」
現場を重ねるごとに、さまざまな工法や特許技術を開発し、技術力を着々と蓄えてきたマサル。昭和50年代以降、その積み重ねから、あらたな事業領域が生まれていく。リニューアル事業である。
開発されたスーパーブラスト工法(メカス)の装置
開発されたスーパーブラスト工法(メカス)の装置
建物というものは、何も手入れをしなければ、竣工と同時に劣化が始まる。雨、風、地震などの自然災害や経年劣化による故障、損傷だ。人間も年をとればほころびが出てくるが、それと同じである。つまり、建物を永く、美しく保つためには、人間が医者の検診、治療を受けるように、建物も健康診断や修復作業を受ける必要がある。しかし、それは決して簡単なことではない。内部構造や目には見えにくい部分の損傷も、外から見て診断しなければならないからだ。そこで生きてくるのが、実はマサルの工事実績と経験、技術力だった。
多種多様な現場をくぐり抜けてきた経験や技術力は、建物の安全性や劣化状態を調査、診断する上で非常に役立った。また、昭和50~60年ころ経年劣化が起こる建物といえば、その多くが30~40年代にマサル自身が施工した物件でもあった。例えば、平成元年にリニューアル工事を行った三井霞が関ビルもそう。自分たちで手がけたものだからこそ、どこがおかしいか、どうすれば治るかは、一目瞭然であった。また、もともと自分たちが携わっていた物件以外にも、その技術力は役立ち、実際、数多くの物件を担当した。
国会議事堂
国会議事堂
その中には、昭和58年に工事を行った国会議事堂をはじめ、横浜三井物産ビル、ニコライ堂など、歴史的建造物も多い。ニコライ堂では、「建物の内外をキレイにしなければいけないが、いい具合の歴史を感じさせる汚れは表現しなければいけない」という課題も噴出。現場でさまざまな工法を試しながら、一つひとつクリアしていった。新規物件の施工から、その後のリニューアル(メンテナンス)まで一貫して請け負える、そういう体制がまさに整ったのだ。
マサルは今日もどこかで、現場に立つ。人々が集い、快適に過ごす建物という空間。
その空間を永続的に、美しく保つために。